-
『トラウマの国』高橋秀実2009.07.21 Tuesday
-
R45のコラムを読んで興味を持ち、他の文章も読んでみたいなぁと思っていた方です。
図書館にあったので借りてみた。
この本は雑誌に発表された文章をまとめたもので、特にテーマに一貫性はない。と思う。
基本的に取材と体験で構成されています。
少し前の本のため、若干内容が古いのはしょうがないが、変わらない部分もある。
『トラウマへの道-本当の「自分」』から始まり、ゆとり教育、資格、夫婦の問題から田舎暮らし、自分史まで。
全体的な印象は、ステレオタイプへの肩透かしとでもいいましょうか。
『トラウマへの道』は自分はトラウマがあるに違いない、とセラピーを体験。
しかしどうも特にないみたいだ、と結論するのだが、「絶対あるある」とセラピー仲間に言われる。
そりゃね。
一時期、アダルトチルドレンといった言葉も良く耳にしました。
しかしトラウマが無い人なんていないと思うんですよね。
ある出来事や言われた言葉で、ひどく傷ついた体験がない人なんてまずいないでしょう。
それがその後の人生が困難になるほどの出来事の場合もある。
だから、良くあることで大したことはない、というつもりは全くないのですが。
取材では、そういうレベルではない、自己への理由付けとしての「トラウマ探し」の方が多かったようです。
続く2つの文章では、子どもの夢とゆとり教育について書かれています。
しかしなんだ・・・最近の子どもって疲れてるんだなぁ・・・。
大人も疲れてる気がするが、そのせいなんだろうか。
夫婦の問題も興味深かったけれど割愛。
今のところ殺意が沸いたことはないですけどね。
これでいいのか?と思ったのが、『生きざま革命-「日本共産党」の人びと』。
党活動が刺繍だったり、後援会活動がカラオケだったり。
悪くはないけど、政治的な考えは問題にされてないようなのは政党としてどうなんだ。
今もこうなんだろうか。
続いて『せわしないスローライフ-「田舎暮らし」の現実』。
うんまあ、そうだよねぇ。という感じです。
引退したらのんびり田舎暮らしでも・・・と言っても、田舎は不便ですからね。
体が弱ってくれば、出来ることも限られてくるし。
最後が、『自分とは何か?-「自分史」を書く』
自分探しから始まって自己確認へとまとめた感じなんでしょうか。
最初は正面から入っていって、でも視点が斜め。
取材から一般的な見られ方と現実とのギャップが浮かび上がる。
最終的な結論づけも特に無く、なんだかなあ、という感じで終わる。
面白いけど、何かを明確に論じた結果結論を断言して欲しいような人には不向きですね。
-
『きみに読む物語』ニコラス・スパークス2009.07.17 Friday
-
原題は「The Notebook」。
映画化もされています。
80歳の老人が、施設でノートを毎日読み上げます。
相手はアルツハイマー病の妻。
読み上げるノートの内容は、ノアとアリーという2人の恋物語。
アルツハイマーであるアリーは、それが自分の物語であるということを忘れています。
毎日ノートを読むことで、ノアは彼女に思い出させようとしているのです。
うまくいくと記憶が戻り、2人は再び恋に落ちます。
しかし夜になるとアリーには幻覚が見え、元の状態に戻ってしまいます。
そしてまた朝になると、ノアは彼女の傍らでノートを読みあげるのです。
ノートに書いてある物語が本のほとんどの部分を占める。
若い時の2人の出会いから別れ、再会が語られる。
それ以外の部分は80歳のノアの視点で書かれている。
べったべたの純愛物語、ではあるのだが、それだけというには老人の行為に凄みがありすぎる。
一心不乱の愛とでもいうのだろうか。
素敵だとか感動した、とかいう言葉では片付けられない切羽詰ったような切なさがある。
あとがきにあるが、この人の作品では
・文体がシンプル
・人のネガティブな面がほとんど出てこない
という特徴があるらしい。
確かに、恋愛物語ではあるがねちっこい感じは無く、読みやすい。
また誰かが誰かを恨んだり、というどろどろなこともない。
読んだ後に気持ちが暗くなる、という人は多分いないだろう。
極端だがありふれた奇跡の物語、とでもいいましょうか。
しかし、ノアの気持ちが少しはわかるような気がする。
-
『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ2009.01.18 Sunday
-
カズオ・イシグロさんの『わたしを離さないで』、ちょっと前に話題になってました。
以前。『日の名残り』を読んだことがあります。
あちらは古き良きイギリスの残り香満載だったのですが、こちらはSF風味。
タイトルの「私を離さないで」というのは、作中に出てくる歌のタイトルです。
ネタバレ的な粗筋は
語り手はキャシー・H。優秀な「介護人」です。
話は友達のルース、トミーを中心に進んでいきます。
第一部は「ヘールシャム」時代。
寄宿舎のようなもので、保護官達が授業を担当しています。
ぼんやりと明らかになってくるのが、ここにいる生徒達は皆普通の人間とは違っているということ。
子供が作れない。
学校を出たらやがて臓器提供が始まる。
つまり、臓器を提供するためにだけ育てられている人間ということです。
ヘールシャムは特別な場所であるが、何が特別なのかは明記されません。
学校では、体を健康に保つこと、および美術の授業に重きが置かれています。
第二部は「コテージ」時代。
卒業後、他から来た生徒達とコテージでの暮らしが始まります。
論文を書くためですが、介護人になるまでの猶予期間みたいです。
介護人とは提供者の介護をする人であり、いずれ自らも提供者になります。
ここで、生徒達はクローンであることも明記されます。
更に、特別であるヘールシャムの生徒には執行猶予が認められる、という噂が出てきます。
本当に愛し合うカップルが申請すれば、臓器提供を数年猶予されるという。
最後にキャシーはルースと仲たがいをし、キャシーは介護人になるために出て行きます。
第三部が、介護人時代。
提供者となったルースの介護人となります。
キャシーはルースと、同じく提供者になっているトミーを訪れます。
ルースは2人に猶予を申請するようにお願いします。
ルースが「使命を終えた」後、トミーの介護人となったキャシーは執行猶予を願い出に行きます。
そこで、愛し合うカップルに猶予なんて牧歌的な救済策はないことが明らかになります。
ヘールシャムが特別であったのは、人道的な運営をしていたから。
美術が重視されていたのは、クローンも魂がある、という証明のため。
しかしその活動は失敗に終わっていたのです。
一時期は盛り上がったものの、通常の人間より優れているクローン人間を作り出そうとした研究者により逆風が吹きはじめます。
臓器提供をしている人達のことなど本当は知りたくない、というのが世間の反応でした。
話の中で、提供者は同じ立場以外の人との関わりは殆どありません。
提供者の面倒を将来の提供者にみさせるというのもなかなかすごい発想だと思いますが、変なリアリティがあります。
前半は遠まわしな話の展開、後半はどう話が進んでいくんだろう、と先が気になってしまいます。
淡々と語られていく話はあくまでも主観的であるため、クローン人間の人権云々といった社会派側面は感じられません。
社会に何か訴えよう、という話ではないし、感動大作という感じでもない。
登場人物たちは様々な思いを秘めつつ、「使命を終えて」行くのです。
静かにじわりとくる本でした。
< 前のページ | 全 [6] ページ中 [1] ページを表示しています。 | 次のページ > |